豊原国周の役者絵などの浮世絵の他、陶磁器、着物など買い取り致しました。

  • 豊原国周
買取した品
浮世絵 陶磁器 着物
買取方法出張買取
お住まい東京都北区
買取参考価格15,000円

※買い取り価格は当日の価格であり、その価格を保証するものではありませんので予め御了承下さい。
※状態や付属品の有無、買い取り方法などによって価格が変動いたします。

スタッフからのコメント

東京都北区のお客様よりお引越しの整理の際にお電話を頂きましてお伺いさせていただきました。

浮世絵は豊原国周の他に歌川国芳の役者絵、名所絵など複数点ございました。多少傷みがあるものもございましたが丁寧に一点ずつ査定をさせていただきました。どうしてもヤケや折れなどの傷みはマイナス査定になってしまいますが精一杯の査定をさせていただきお客様にご満足いただける価格にてお譲りいただきました。

ご依頼くださいまして誠にありがとうございました。

 

豊原国周

豊原周信及び歌川国貞(三代目歌川豊国)の門人。本姓は荒川氏、俗称は八十八。江戸京橋五郎兵衛町の湯屋(一説には江戸京橋三十間堀七丁目の家主)大島屋九十郎の次男として生まれる。母は同心の荒川三之丞の娘八重。画号は国周の他、一鶯斎、豊春楼、花蝶斎、花蝶楼、華蝶斎、華蝶楼、一桃、歌清舎、曹玄子、米翁、鶯斎。画姓を豊原としたのは、師の豊原周信への恩を忘れぬためだといわれる。幼い頃はかなりやんちゃで近所から苦情が来ていたという。しかし、びら屋で祭礼の際に用いられる地口行灯(もとの言葉を別のものに仕立てて楽しむ言語遊戯、つまりは語呂合わせである地口を、絵で行灯に描いてある。祭礼時に町の辻に飾ることが流行し、その絵の多くが浮世絵師によって描かれた)の制作の手伝いをするなど、画才を示していた。兄の長吉が南伝馬町に押絵屋を開業したことがきっかけで、長谷川派の豊原周信に師事し役者似顔を学び、羽子板押絵の原図を制作した(一説には羽子板師の隣春に就いたともいわれる)。数奇屋河岸にあった羽子板問屋明林堂の仕事を引き受け、その役者絵は評判が良かったという。国周の墓所である本龍寺には、現存してはいないが押絵師湯川周丸を発起人とした国周の辞世句「よの中の人の似かおもあきたれば ゑむまや鬼の生きうつしせむ」を刻んだ碑があったといわれるので、終生羽子板絵とのかかわりが保たれたのだろう。

嘉永元年(1848年)三代目豊国のもとに入門し、嘉永5年(1852年)には豊国の役者絵の一部を描き、門人八十八と署名する。安政2年(1855年)の頃より、最初の師である豊原周信と豊国の名前を合わせた画名である豊原国周と署名するようになる。明治2年(1869年)、人形町具足屋嘉兵衛を版元にし、彫工・太田升吉による役者似顔大首絵を多数制作して力量を示した。このシリーズにより「役者絵の国周」として知られるようになり、後世小島烏水によって「明治の写楽」と称せられる。同年には大橋屋弥七から似顔大首絵を2枚、3枚続にした作品を出版した。後年は伝統的な役者似顔絵の七分身像を多く描き、3枚続の画面に一人立ちの半身役者絵を描く大胆な構図の作品なども描いた。顔貌描写に羽子板絵式の装飾味を持たせ、美人画にも独特の晴れやかさを示した。3枚続に役者一人を描くという新しい構成は国周が創始したとされる。明治期における役者絵絵師の代表的存在であり、作品数も多く、明治演劇史の資料としても大変価値がある。

 


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